なんだかよくわからないけど、イヤな日ってときどき誰にでもあると思うんです。
私の場合は今日がまさにそれでした。
今日は昼から大好きな陶芸の授業だったんですが、なぜだか憂鬱でしかたなかったんです。陶芸の授業って言うのはもうそのまんまで、ただ土をこねて作品を作るだけの楽でたのしい授業なのに、何故だか行きたくなくって、とにかくベッドから出るのが嫌でした。
そんなときどうするか。それは人によって変わると思いますが、私の場合は“外にでること“で持ち直すことが多いように思います。
今日もまさにそうでした。
結局嫌々ながらもベッドを出て、身支度を整えて、部屋を出ました。
嫌な気分の時って、なんでも嫌に感じてしまうもので、どんよりとした曇り空がまた陰鬱で。
道を歩いていたら血気盛んで考えなしであろう若者におそらく“アジア人だから”という理由で何事か叫ばれました。すれ違い際に中指立ててしまいました。
何か気分転換したくって買い物に行くものの、もともとそんな気分じゃないからか全く楽しめず、ただただ広いショッピングモールを歩いて疲れただけでした。ああ、これはどうしたものだろう。寒いし、ホットワインでも飲んで帰らないとなんだかやってられないな、と思って今月頭からやっているクリスマスマーケットに寄って帰ることにしました。
マーケットには小さな屋台が立ち並び、かわいい、手作りであろう雑貨が売られていて幸福のかたまりのような空間でした。ホットワインを売っている屋台はたくさんありましたが、いろんな種類のワインボトルが並んだワイン専門店のホットワインを飲むことにしました。
ホットワインのシナモンやたくさんのハーブ、オレンジの香りがとても好きで、臭いをかぐたけで少し元気になります。お店のおばちゃんはお客さんがいても携帯でずっと話しています。ハンガリーではよくあることです。少し待って、でもまだ話が終わらなくて、よそにいこうかなあ、と思ったのですが、お鍋いっぱいに入ったワインの中にぷかぷか浮かぶオレンジを見たらどうしてもここのホットワインが飲みたくなって、しかたないけどもう少し待つことにしたのでした。
そのとき、お店の前にいた背の低いおじいさんが
“May I help you?”
と声をかけてくれました。
何か頼みたいなら、私が注文してあげますよ、と。ハンガリーはヨーロッパの国にしてはめずらしく、まるで日本みたいに英語を話せる人が少ないのでとても驚きました。高齢のひとならなおさら、英語を話せるひとなんていないものと思い込んでいたので。
“ありがとうございます、ホットワインを頼もうかと・・・”
“そう、赤がいい?白もありますよ”
“ああ、じゃあ赤が”
“・・・でも、自分で注文できます。私はただ、”
まだおばちゃんは携帯で話していました。
“待っているだけで・・・”
ああ、とおじいさんは笑ってくれました。
“なぜペーチに?”
“留学です。ペーチ大学に。”
“ああ。どちらから?日本かな?”
“ええ、そうです”
“それはそれは、遠いところから”
こんなに綺麗な英語を話す人は、もしかしたらハンガリー人ではないのかと思い、
“こちらにお住まいですか?それともご旅行で?”
とたずねてみました。
“ああ、ペーチに住んでますよ、ずっとね”
“私の父さんたちは、500年前からずっとここに住んでいるんだよ”
と、片目をつぶりながらいたずらっぽく教えてくれました。
間もなくおばちゃんのお客さんを前にした長電話も終わり、ほかほかのホットワインを買うことができました。おばちゃんもごめんなさいね、とさほど悪気もない様子でにこにこしながら注文をとってくれました。ホットワインは期待通りにいい香りで甘く、とてもおいしかったです。
“ありがとうございました。よい一日を”
そう言ってお別れしたとき、おじいさんの上品な眼が優しく細められました。
ホットワインを飲みながら、寒い道を歩き、それでもとても暖かな気持ちになっていました。
ワインのおかげで事実温まっていたのもありますが、もちろんそれは二次的な要因です。
帰ったらケーキを食べよう、そう思って初めて入ったケーキ屋さんのお姉さんがとても愛想のいい、素敵な人でした。
今日は大好きなKremes<クレメシュ>を買いました。帰ったらカプチーノと一緒に食べよう、とわくわくしながら帰りました。
クレメシュはパイにカスタードクリームをはさんだだけのケーキで、太らないわけないケーキですが、今日はいいのです。
初めて入ったケーキ屋さんでしたが、クリームがしつこすぎず、当たりでした(たまに気持ち悪くなるクレメシュもあるので)。
振り返ってみると、今日はとてもいい日になっていました。
素敵な老紳士とお話したこと。
最初から中国人、と言われるのではなく、日本人でしょうと言ってもらえたこと。
ホットワインがおいしかったこと。
クレメシュが当たりだったこと。
なんでもない、憂鬱な一日は、とても簡単なことでいい日に変わってしまいます。
こうした出会いに恵まれたとき、自分は良く生かされているのだろう、と思います。
そしてこの小さな一日は、大仰に考えると人生の縮図であるかのようにも考えられます。
たとえば、今日は嫌な気分のまま、自分を甘やかして部屋をでなかったら。
あの老紳士とも出会わなかったし、ホットワインを飲むこともなかったし、おいしいクレメシュを口にすることもなかった。
外に出ることは、可能性を増やすことであり、可能性を増やすことは選択肢を増やすことだと思います。
そして、外に出ることは変化する世界を感じることであり、小さな変化に気づける人はより美しさや感動に出会える可能性が高くなると思います。
たとえば、冬の澄んだ空気で肺が満たされる感覚、夕暮れを反射する広場、寒さに負けない白く小さな花、ほがらかなおばあちゃんの笑い声。
こうした生活の端々にあふれるものを感じることで、いつのまにか嫌だったことも緩和され、楽しく生きることができると思うのです。
なんて単純な、と自分でも思いますが、単純なほうがわかりやすいときもあるはずです。
今日はなんでもない、しかし印象的な一日でした。
あらためてちっぽけな私が、こうしてこの美しいペーチという街にいることを幸せに思ったのです。
今週末で1学期も終わり、冬休みに入ります。
もう半年、まだ半年、あと半年。
どんな小さなことも見逃したくない、ぜんぶぜんぶ、自分の中に刻み込んでいきたいです。
このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除